組織は「正しいこと」ではなく「誰が強いか」で動くことがある――『保身 積水ハウス、クーデターの深層』を読んで

組織は「正しいこと」ではなく「誰が強いか」で動くことがある――『保身 積水ハウス、クーデターの深層』を読んで 書籍・雑誌

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積水ハウス地面師事件。
Netflixの『地面師たち』のモデルの一つとしても知られる事件なので、「大企業が地面師に55億円以上騙し取られた事件」という程度の認識は持っていた。
しかし、この本を読むと、地面師事件そのものより、その後に起きたことのほうがはるかに恐ろしい。

なぜ、これほど巨大な企業が詐欺に引っかかったのか。なぜ、途中で何度も出てきた警告が止められなかったのか。なぜ、巨額の損失を出したあとも責任の所在が曖昧になったのか。そしてなぜ、事件の責任を追及しようとした側が、逆に会社から追われることになったのか。
そこにあるのは、組織は必ずしも「正しいこと」によって動くわけではない、という、非常に嫌な現実である。

「こんな詐欺に騙されるなんて馬鹿だ」で終わらせてはいけない

事件だけを見ると不思議である。積水ハウスほどの会社である。不動産取引の素人ではない。にもかかわらず、土地所有者になりすました地面師グループに騙され、巨額の代金を支払ってしまった。しかも、その過程では取引の真正性を疑わせる情報がいくつも存在していた。
普通に考えれば、「途中で誰かが止められただろう」と思う。しかし、止まらなかった。

こういう事件を見るとき、「担当者の能力が低かった」という説明はあまり信用しないほうがいい。もちろん個々の判断ミスは存在する。しかし、大きな組織で何人もの人間が関わっているにもかかわらず、おかしな意思決定が最後まで止まらない場合、問題は個人よりも構造にあることが多い。

上司が強く推進している。会社として重要な案件になっている。ここまで進めた案件を今さら止めにくい。自分だけが反対するのも面倒だ。もしかすると自分の知らない事情があるのかもしれない。
そうやって、一人ひとりはそれなりに合理的に振る舞っている。にもかかわらず、組織全体として見ると、とんでもなく非合理な意思決定が出来上がる。これが組織の怖いところだ。

権限が大きくなるほど、責任も大きくなる――とは限らない

会社組織には建前がある。権限と責任はセットである。大きな意思決定をする人ほど、大きな責任を負う。だから経営者は高い報酬を受け取る。理屈としては極めて正しい。

しかし現実の組織では、ときどき逆のことが起きる。役職が上がるほど、情報をコントロールできる。人事権を持つ。会議のアジェンダを決められる。誰を意思決定に参加させるかを決められる。そして何より、「何が事実だったことにするか」を決める力が強くなる。すると、本来は責任を取るべき立場にいる人間ほど、責任から逃れるための手段をたくさん持っているという逆転現象が起こる。

これが『保身』というタイトルの意味ではないか。

保身というと、我々は小心者を想像する。しかし、本当に恐ろしい保身は違う。権力を持った人間が、自分の地位を守るためにその権力を使う。

そうなると、個人の保身が、組織の意思決定そのものに変換されてしまう。

コンプライアンス制度があっても会社は腐る

この本を読んでいて感じるのは、制度を作ることと、その制度が機能することは全く別の話だ、ということである。

取締役会がある。監査役がいる。コンプライアンス部門がある。内部通報制度がある。社外取締役がいる。調査委員会も設置する。外形的には、かなり立派なガバナンス体制を構築できる。しかし、その会社で最も権力を持っている人物に問題が起きたとき、それらが本当に機能するか。問題はそこにある。

平時に部下の不正を摘発できるコンプライアンス部門など、珍しくない。しかし、社長がおかしい、役員がおかしい、取締役会がおかしい、となったとき、「それはおかしい」と言える仕組みになっているか。こちらのほうがはるかに難しい。

コンプライアンスを規程の数や研修の受講率だけで評価しても意味はない。本当に見るべきなのは、権力者に対しても同じルールを適用できるかである。下には厳しく、上には優しいことほど、組織を腐らせるものはない。

「正論を言えば勝てる」は幻想である

そして、この事件で個人的に非常に興味深いのが、経営陣の権力闘争である。会社なのだから、事実を整理する。責任の所在を明確にする。取締役会で議論する。最も合理的な結論を採用する。というプロセスで意思決定されるべきだ。

しかし、現実の人間社会はそんなにきれいではない。誰が誰を支持しているか。誰が取締役を押さえているか。誰が事前に話を通しているか。誰がどの情報を持っているか。誰が人事権を握っているか。そうした要素によって結果は大きく変わる。

つまり、論理的に正しいことと、組織の意思決定として採用されることは別問題である。これは積水ハウスに限った話ではない。会社で仕事をしていれば、多かれ少なかれ誰でも経験することだ。会議の場で完璧な正論を述べても、人は必ずしも動かない。逆に、会議が始まる前に関係者と話し、文脈を共有し、支持を取り付けている人の意見は通りやすい。

これは政治的で嫌だ、と感じる人もいるだろう。しかし、人間の集団で意思決定する以上、政治的な要素を完全に排除することはできない。「政治なんてくだらない。正しい意見なら採用されるべきだ」と言うこと自体は簡単だ。しかし、それは人間社会について少し楽観的すぎるのではないか。

組織にとって本当に危険なのは「悪人」ではない

本書を読んでいて、もう一つ考えたことがある。会社を壊すのは、分かりやすい悪人とは限らない。

むしろ、
自分のキャリアを守りたい。
上司に逆らいたくない。
面倒な問題に巻き込まれたくない。
自分の任期中には問題を起こしたくない。
今さら過去の判断が間違っていたとは認めたくない。

そうした、ごく普通の感情の積み重ねのほうが怖い。一つ一つは理解できる。自分がその立場だったら、同じように考える可能性すらある。だからこそ厄介なのだ。

ハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」を持ち出すほど大げさな話ではないが、組織の腐敗は、強烈な悪意よりも、小さな保身の連鎖によって生まれることがある。

誰も、心の底から会社を壊そうだなんて思っていない。巨額の損失を出そうとは思っていない。ガバナンスを崩壊させようとは思っていない。

それでも、それぞれが自分にとって合理的な行動を取った結果、組織全体として最悪の結果に向かっていくことがある。この構造はかなり恐ろしい。

だから「良い人を採用する」だけでは足りない

では、どうすればいいのか。「誠実な経営者を選びましょう」では弱い。人間の人格に依存するガバナンスは、その人がいなくなった瞬間に終わる。

必要なのは、人間は保身するものだ、という前提で組織を設計することではないか。権限を集中させすぎない。反対意見を正式なプロセスに乗せる。意思決定の記録を残す。重要案件では推進者とリスク評価者を分離する。誰が何を知り、何を判断したのかを後から検証できるようにする。

性善説でも性悪説でもない。人間とは、成功すれば自分の功績だと思い、失敗すれば環境や部下のせいにしたくなる生き物である。程度の差こそあれ、それは誰にでも当てはまる部分があるだろう。だから人格ではなく、仕組みで補正する。

これはセキュリティと同じである。「社員を信用していますからアクセス制御は不要です」という会社があったら、普通は危ないと感じるだろう。ガバナンスも同じなのだろう。

一番怖いのは、会社が普通に回り続けること

そして『保身』を読んでいて最も不気味なのは、これだけのことが起きても、会社そのものは存続するということである。

商品は売れる。社員は出社する。給与も振り込まれる。会議も行われる。決算も発表される。外から見ると会社は普通に動いている。だからこそ、組織内部のガバナンス劣化は発見しにくい。

会社というものは、ある日突然腐るのではない。少しずつ、「今回は仕方ない」「ここまで大事にする必要はない」「社長案件だから」「昔からそうやっている」という例外が積み重なっていく。そしていつの間にか、本来守るべきルールより、人間関係や権力関係のほうが強い組織になる。その状態になってからルールを追加していっても遅い。

『保身』は、他社の不祥事を笑うための本ではない

この本を、「積水ハウスはひどい会社だ」という感想だけで読み終えるのはもったいない。むしろ問うべきなのは、自分の会社なら、自分のマネジメントしている組織だったら、ハッピーエンドを迎えられたのか?ということだ。

社長が強く推進している重要案件で重大なリスクを発見したとき、止められる組織なのか。直属の上司の責任につながる情報を知ったとき、周りは報告できるか。経営トップの意向とコンプライアンスが衝突したとき、ルールを優先できるか。そして自分自身が責任を問われる側になったとき、本当に潔く責任を認められるか。全部できると自信を持って答えるのは、簡単ではない。だからこそ、仕組みが必要なのだと思う。

良い会社とは、立派な理念を掲げている会社でも、コンプライアンス研修を大量に実施している会社でもない。人間が弱く、間違い、そして保身することを前提として、それでも致命的な方向へ進まないように設計されている会社。

『保身』は、その仕組みが壊れたときに何が起きるのかを、非常に生々しく見せてくれる。地面師よりも怖いのは、地面師に騙されたあとの組織だった。

この本は、そんな組織論の本として読んだ。

書籍情報

項目内容
タイトル保身 積水ハウス、クーデターの深層
著者藤岡雅
出版社KADOKAWA
発売日2021年5月28日
ページ数357ページ
Kindle版価格1,980円(税込)
単行本価格2,310円(税込、中古は476円から)

※価格・仕様等の情報は記事作成時点(2026年9月)のものです。最新の情報はAmazon商品ページでご確認ください。本文中の見解は本書を読んだ筆者個人の感想・考察であり、特定の企業・個人の評価を断定するものではありません。事件の経緯・事実関係の詳細については本書および公的な報道をご確認ください。

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