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東京は高い。家賃は高い、住宅価格も高い、通勤電車は混んでいる、飲食店も保育園も混雑する。オフィスを構えるにも地方とは比較にならないほどコストがかかる。満員電車で揉まれながら「なぜ僕はここにいるのだろう」と哲学する人は、東京の人口くらいいるかもしれない。
しかも今では、ZoomもSlackもTeamsもある。エンジニアならGitHubで共同作業できるし、営業活動も採用面接もオンラインでできる。クラウド環境があれば、多くの仕事は物理的に同じ場所にいる必要がない。もっとも、リモートワークツールの営業資料には「オフィスは不要になります」と景気よく書いてあるわりに、オフィスビルの家賃はいまだにさほど下がっていないのだが。
それなら、なぜ人も会社も、未だに東京に集まり続けるのだろうか。地方の方が安く、広く、快適に暮らせるのであれば、経済活動はもっと分散してもよさそうである。『年収は「住むところ」で決まる』は、この一見不合理な現象について非常に明快な説明を与えてくれる。それは、知識産業では人と企業が集まること自体が生産性を高めるから、である。
- 「良い人材が都市に集まる」だけではない
- なぜ知識産業は「集まる」のか
- だから「地方の方が安い」は、必ずしも企業を地方へ移動させない
- イノベーション産業は、周囲の仕事まで増やす
- 東京一極集中は「自己強化ループ」である
- 日本では、すでにかなり強い集積が起きている
- Zoomがあっても都市が消えなかった理由
- 人は「会社に行くため」だけに東京にいるのではない
- むしろ「転職可能性」を考えると、東京居住は合理的になる
- そして企業側にも同じ論理が働く
- リモートワークは「集積」を消すのではなく、形を変えた
- 「地方創生」が難しい理由もここにある
- 一方で、本書を東京一極集中の全面肯定として読むべきではない
- 東京問題を見るレンズとして非常に強い本
- 書籍情報
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「良い人材が都市に集まる」だけではない
都市の所得が高い理由について、普通はこう考える。優秀な人は東京やニューヨークやシリコンバレーに行く、だから都市の平均所得が高くなる。つまり「優秀な人→都市に移動→都市の所得が高くなる」という説明である。もちろんこれは間違ってはいない。しかしモレッティの議論はもう一歩踏み込む。同じような能力を持つ人間であっても、どこで働くかによって生産性そのものが変わる、というのだ。
人間の生産性は、その人個人の能力だけでは決まらない。周囲にどんな企業があるか、どんな人材がいるか、どんな取引先がいるか、どれだけ知識が流通しているか——こうした環境によって変わる。つまり「人の能力×場所の生産性」によって、その人が生み出す経済価値が決まる。だから邦題の「年収は『住むところ』で決まる」という表現になる。
なぜ知識産業は「集まる」のか
モレッティは、イノベーション企業が高い家賃や高い人件費を払ってまで都市に集積する理由を、大きく三つ挙げている。
1. 厚い労働市場
まず、人材市場が大きい。たとえばAIエンジニアを100人採用したい会社があるとする。地方都市では、そもそも採用候補となるAIエンジニアがほとんどいないかもしれない。東京なら候補者が何千人もいる。逆にエンジニアの立場から見ても同じである。一社しか働く場所のない地域より、GoogleもMicrosoftもスタートアップもコンサルティングファームも金融機関もある場所の方が、職業上のリスクが低い。一社を辞めても、次の仕事があるからだ。一社しかない街で転職活動をするのは、コンビニが一軒しかない街で「今日は何を食べようか」と悩むようなものである。選ぶも何も、選択肢がない。その結果、企業は人材のいる場所へ行き、人材は企業のいる場所へ行く。この循環によって労働市場がさらに厚くなる。専門性の高い仕事ほど、多数の雇用者と労働者が存在する「厚い労働市場」でマッチングの生産性が高まるという。
2. 専門サービスも集積する
二つ目が、企業を支える専門サービスである。テクノロジー企業が必要とするのはエンジニアだけではない。知的財産に詳しい弁護士、スタートアップ投資に詳しいVC、特定技術に詳しいコンサルタント、採用会社、広告会社、研究機関、専門設備を提供する企業——こうしたプレイヤーも、顧客が集まっている場所に集積する。地方でスタートアップ特化の弁護士を探すのは、砂漠でペンギンを探すようなものかもしれない。すると企業側から見れば「東京に行けば何でも揃う」という状態になる。これは巨大な経済的メリットである。単純なオフィス賃料だけを比較すれば、東京100万円・地方30万円なら地方の方が安い。しかし必要な人材や専門業者を探すのに数カ月かかるなら、その70万円差など簡単に吹き飛んでしまう。だから企業は、不動産コストではなくエコシステム全体の取引コストを見て立地を決める。
3. 知識は、人から人へ漏れ出す
そして最も重要なのが「知識のスピルオーバー」である。知識は完全には文書化できない。GitHubにコードを書くことはできるし、Notionに仕様書を書くこともできる。しかし「最近あの技術がかなり良いらしい」「あの会社のこのやり方がうまくいっている」「この人が独立しようとしている」「この市場が急に伸び始めている」といった情報は、人間同士の日常的な接触によって伝わる。給湯室の雑談を侮ってはいけない。あの何気ない立ち話が、次の四半期の業績を左右することもある。モレッティは、同僚との会話だけでなく偶然の出会いや日常的な人的接触も含めた「人的資本のスピルオーバー」を集積の重要な要因としている。つまり都市では、人間そのものが情報インフラになっている。これはインターネットでは完全には代替できない。
だから「地方の方が安い」は、必ずしも企業を地方へ移動させない
ここが本書の重要なところだと思う。通常の経済合理性だけを考えれば、土地が高くなれば企業は安い土地へ移動するはずである。ところが知識産業では、集積による生産性向上が賃料や給与の上昇を上回る場合がある。だから、高いから出ていくのではなく、高くても残る。実際、後年の研究でも、科学者が多く集積した都市ほど研究生産性が高く、科学者の集積が10%増える場合、生産性上昇がコスト上昇を大きく上回るという推計が報告されている。シリコンバレーの家賃があれだけ高騰してもテクノロジー企業が存在し続ける理由はここにある。そして東京も基本的には同じ構造を持っている。
イノベーション産業は、周囲の仕事まで増やす
もう一つ、本書で非常に印象的なのが「雇用の乗数効果」である。モレッティの研究では、米国の都市においてハイテク産業の雇用が1人増えると、長期的にはその地域に約5人分の別の雇用が生まれると推計されている。そのうち2人程度は医師や弁護士などの専門職、残り3人程度は飲食・小売などの非専門職である。
これは非常に重要な話である。ITエンジニアが1000人増える。彼らは給料を使う。住宅を借りる、飲食店に行く、美容院に行く、子どもを学校に通わせる、病院へ行く、タクシーに乗る。すると、IT産業とは直接関係のない人たちの仕事まで増える。そこで働く人も消費する。さらに仕事が増える。こうして都市全体の所得が上がる。つまり「イノベーション産業→高所得雇用→サービス需要→雇用増加→人口増加」という循環が発生する。そして人口が増えれば市場も大きくなるため、さらに企業が進出する。
東京一極集中は「自己強化ループ」である
ここまで整理すると、日本の東京一極集中もかなり違って見える。典型的には「企業の本社が東京にあるから若者が東京へ行く」と説明される。しかしこれは循環の一部分にすぎない。本書の理論で整理すると、企業がある→優秀な人材が集まる→労働市場が厚くなる→企業にとって採用しやすくなる→専門サービスが集まる→知識のスピルオーバーが増える→企業の生産性が上がる→賃金が上がる→さらに人材が集まる→さらに企業が集まる、というフィードバックループになる。したがって「地方に仕事を作れば人口が移る」程度の政策では、この循環に対抗するのは難しい。東京には企業だけでなく、企業・人材・大学・金融・投資家・専門サービス・取引先・行政・情報がセットで存在しているからである。
日本では、すでにかなり強い集積が起きている
これは単なる米国の話でもない。東京圏は日本の国土面積の約5%にすぎない一方、東京圏在住の発明者による特許が日本全体の約61%を占めるとの指摘もある。つまり人口や企業だけでなく、イノベーションそのものが地理的に集中している。しかもコロナ禍で大規模なリモートワーク実験を経験した後も、東京への人口移動は止まっていない。2025年の東京圏は12万3534人の転入超過で、日本人に限れば30年連続の転入超過だったとされる。リモートワーク環境が整えば東京一極集中が終わる、というほど単純ではなかったことが分かる。
Zoomがあっても都市が消えなかった理由
ここからは本書刊行後の出来事なので、本書そのものではなく、本書の理論を現在に適用した解釈になる。コロナ禍では「オフィスに行く必要がなくなれば、都市は不要になる」という議論がかなりあった。これは一面では正しかった。毎日オフィスに出社する必要性は確実に低下した。しかし、オフィスに毎日行く必要がないことと、都市圏に住む必要がないことは別問題だった。
リモートワークによって、大都市中心部から人口が移動する「ドーナツ化」は確認された。ところが、大都市中心部から出た世帯の多くは、遠隔地へ移住したのではなく、同じ都市圏の郊外へ移動していたという分析もある。ハイブリッドワークが定着し、週に数日は出社する必要が残ったことがその一因と見られている。これはかなり重要である。リモートワークによって起きたのは「東京から地方への完全分散」ではなく「都心→東京圏郊外」という居住地の再配置だった可能性が高い。
人は「会社に行くため」だけに東京にいるのではない
ここが、本書をリモートワーク時代に読み直すと最も面白いところだと思う。東京に住む理由を「丸の内のオフィスに毎朝9時に出勤するため」だけだと考えるから、「在宅勤務なら地方でよいのでは?」という疑問になる。しかし人間が都市から得ているものは、それだけではない。
- 転職市場:東京なら勤務先が潰れても次の会社がある。
- キャリアオプション:今はコンサルタントでも、SaaS企業・商社・スタートアップ・金融・外資ITへ移れる。
- 配偶者の仕事:自分だけでなく、夫婦双方が仕事を見つけやすい。
- 学習機会:大学、勉強会、コミュニティ、イベントが多い。
- 偶発的な出会い:友人、元同僚、顧客、投資家との接点が多い。
- 消費・文化:飲食、娯楽、教育、医療などの選択肢が多い。
つまり都市とは、通勤装置ではなく、巨大なオプション市場なのである。出社頻度が週5日から週2日になっても、この価値は消えない。
むしろ「転職可能性」を考えると、東京居住は合理的になる
ここは本書からさらに考えられる重要な示唆だと思う。仮に完全リモートの会社Aで働いているとする。会社Aだけを見るなら、北海道でも沖縄でも働ける。しかし10年間会社Aに勤務する保証はない。3年後に転職するかもしれない。すると、現在の会社の勤務条件ではなく、将来選択できる企業群で居住地を考える必要がある。東京には100社の選択肢があるが、地方には10社しかない。完全リモートのA社で働いている現在だけを見れば差はない。しかし将来のキャリアまで含めれば、東京に住むことにはリアルオプションとしての価値がある。都市の「厚い労働市場」とは、言い換えればこれである。
そして企業側にも同じ論理が働く
企業も同じである。「今いる従業員がリモート勤務できる」ことと「次に必要になる人材をどこでも採用できる」ことは違う。AIエンジニア、事業責任者、デザイナー、プロダクトマネージャー、CFO候補——希少な人材ほど、採用には偶然性とネットワークが必要になる。そのため企業も、現在の業務効率ではなく将来の採用可能性を考えて都市に残る。結果、企業が東京にいるから人が東京に行く。人が東京にいるから企業が東京に残る。この均衡が簡単には崩れない。
リモートワークは「集積」を消すのではなく、形を変えた
したがって、コロナ後の世界を本書の延長線上で見るなら、リモートワークは都市を不要にしたのではなく、都市集積の地理的半径を広げた、と考える方がしっくりくる。以前は東京駅から30〜45分が通勤圏だった。週2回出社なら60〜90分でも許容できる。すると都心5区に住む必要はなくなるが、東京圏から出る必要もない。だから「中央区→流山」「港区→横浜」「新宿→大宮」といった移動は起きても、「東京→地方都市」までは必ずしも進まない。これは「脱都市化」ではなく「都市圏の拡張」と捉えた方がよい。
「地方創生」が難しい理由もここにある
本書は地方創生政策についてもかなり厳しい示唆を持っている。工場を一つ誘致する、補助金を出す、立派な施設を作る、大学を設置する——これだけでは、イノベーションクラスターは簡単には作れない。看板を「シリコンバレー」に付け替えただけでは、シリコンバレーにはならない。中身が伴わなければ、それはただの看板である。なぜなら集積の価値は一社ではなく、ネットワーク全体によって生まれるからである。モレッティも、研究大学が存在するだけではイノベーションクラスター形成の十分条件にはならず、専門人材や専門サービスを含むエコシステムが重要だと論じている。これは日本の「〇〇県版シリコンバレー」のような政策がなかなか成功しない理由を考えるうえでも示唆的である。
一方で、本書を東京一極集中の全面肯定として読むべきではない
注意したいのは、集積には負の外部性もあることである。住宅価格が上がる、家賃が上がる、通勤時間が伸びる、格差が広がる、低所得者が中心部から追い出される。モレッティの世界では、生産性の高い都市ほど賃金も高い。しかし住宅供給が追いつかなければ、その利益のかなりの部分は家賃や地価に吸収される。すると「年収1000万円になったが、住宅費も500万円になった」ということが起こる。したがって重要なのは、東京への集中を止めることだけではない。むしろ、集積による生産性上昇を維持しながら、そのコストをどう下げるかという政策になる。住宅供給、鉄道、高速交通、保育、教育、都市圏の拡張——このあたりが重要になる。
東京問題を見るレンズとして非常に強い本
本書を読んだあとでは、「東京一極集中を是正すべきだ」という言葉を以前ほど単純には受け取れなくなる。東京に人が集中しているのは、地方に魅力がないからだけではない。東京に人がいること自体が、東京の生産性をさらに高めてしまうからである。そしてその生産性の高さが、さらに企業と人材を引き寄せる。これは典型的なネットワーク効果である。Slackが普及しても、Zoomが普及しても、GitHubが普及しても、このネットワークそのものが消えるわけではない。むしろリモートワークは「毎日会社へ行く」という都市の価値を弱める一方で、「巨大な労働市場・知識市場・人的ネットワークへアクセスできる」という都市の本質的な価値を浮かび上がらせたともいえる。
だから「仕事はどこでもできるのに、なぜ東京にいるのか」という問いへの答えは、「仕事をするためだけに東京にいるわけではない」なのだと思う。人は東京という巨大な市場の中に身を置くことで、仕事・情報・人間関係・転職・学習・投資・消費といった無数の選択肢を買っている。そして企業も同じ市場に参加している。『年収は「住むところ」で決まる』は、都市とは建物の集積ではなく、人間の選択肢と知識を束ねたネットワークである、ということを理解するための本なのだと思う。東京の満員電車に揺られる意味を、この本は教えてくれる。もっとも、明日の朝の満員電車が快適になるわけではないのだが。
※本文中で紹介した統計・研究結果の数値は、本書および筆者が参照した各種報道・研究に基づく紹介であり、当サイトが独自に検証したものではありません。政策的な議論や個々の数値の正確性については、原典(本書および参照先の報道・論文)をご確認ください。本文中の見解は本書を読んだ筆者個人の感想・考察であり、特定の政策・都市の評価を断定するものではありません。
書籍情報
| 書名 | 年収は「住むところ」で決まる ─ 雇用とイノベーションの都市経済学 |
| 著者 | エンリコ・モレッティ(著)/池村千秋(翻訳)/安田洋祐(解説) |
| 出版社 | プレジデント社 |
| 発売日 | 2014年4月23日 |
| ページ数 | 353ページ |
| 価格 | Kindle版 1,650円(税込)/単行本(ソフトカバー) 2,200円(税込) |
※価格は2026年9月時点の情報です。最新の価格・在庫状況はAmazon.co.jpの商品ページでご確認ください。
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